パニック障害は治した方がいいのか?それとも治らないのか?のループ

パニック関連のビューが多いようなので、考えていることを書いてみたい。
(ポチは医者ではないです。自分の経験から考えたことを書いているだけです。医学的に合っているかどうかはどうでもいいです。)

パニックは治した方がいいのか。パニック障害は病気(精神疾患)なのだから、治す(寛解を目指す)べきという考えがあることも分かるし、パニックの人の多くは何とかして治したいと思っているのも知っている。が、しかしパニックって原理的に治らないのではないか?という考えがないこともない。(原理的に治らないというのは、医学的に治らないということとは異なるのは注意が必要。)

パニック障害が医学的に治る(以下、寛解)というのを、便宜的に日常生活に支障がない程度に症状がおさまり、本人もお医者さんも「もう大丈夫そうだ」と思う程度の状態になることと考えてみる。このために手っ取り早いのは、さっさと病院に行って、薬をもらって、認知行動療法をすることだと思う。この場合、例えパニックであっても、日常生活が円滑に遅れれば問題がないということになるし、実際にパニックの人のほとんどはそれを願っているだろう。

しかし、ポチは寛解という意味での治るにあまり興味がない。なぜなら、原理的には治らないのでは?と疑問を抱いているから。
パニックって、何が不安なのかは分かるけど、何でそれが不安なのかは分からない病気だと思っている。(少し話がずれるけど、パニック障害の人が死の恐怖を感じるというのは、この辺りと関係している気がしないでもない。)理由がない不安が原因だから、その理由を遡って、不安の原因を除去することができない。つまり原理的に治らない。
認知行動療法では、(理由がないのに不安になっている)認知を修正するし、薬だって不安(神経伝達物質?)の方をコントロールする。ポチは、どうにもこうにもこの点が納得いかない。何で不安なのか分からないのに、認知(=不安)の方を一刀両断してしまうことに対する恐怖がある。それってパニックの根本原因が分からないから、とりあえず不安の方をどうにかしましょうということじゃん。
もっと言うと、その不安をコントロールすることに対する恐怖自体がパニック障害の症状なんじゃないの?と考えることもできる。が、適切な不安(という表現が適切かどうか分からないけど)の判断ができない状態が「パニック障害」なら、尚更、認知(=不安)を修正しちゃいかんのじゃないかと思ってしまうのだ。判断できていないって明らかなのに、判断しちゃっていいのか。要するに、自分が寛解を選択することそのものに対して、自分自身の疑念がある。自分が何に不安があるかの指標がコントロールされるというのは、パニックより怖い。(パニックの治療というのは、適切な不安の判断をお医者さんがしてくれるものだと思います。でもお医者さんの判断って、日常生活に支障のないという意味の判断でしかなくて、それが正しい判断かどうか分からないでしょ。)

と小難しいことを考えつつも、電車に乗れないとか、外食できないとか、学校が苦手とか…日常生活に支障があるのは困るので、あれやこれやと対処はする。つまり、ある意味で寛解を目指している。そういう自分の矛盾した行為を鑑みると、結局、根拠のない不安、あるいはそれに起因する身体的な不快さを取り除きたいだけなんじゃないかとも思ってしまう。だから20年もダラダラ自己流に対処して、よくもならず悪くもならずを繰り返しているのかもしれない。ということで、結局パニックを治した方がいいのかどうかは分からない。

尚、ポチの経験した最も恐怖を感じたパニックは、場所でも人でも状況でもなく、自分でした。自分から逃れらないということを明確に意識した瞬間のパニックが(身体症状はしょぼかったけど)最も怖かった。直観的にはこの自己恐怖がパニックの根本で、いわゆる広場恐怖とかってそれを隠ぺいするための仮面的?社会的?なパニックなのではないかなんて思ったりもします。ポチ的ループって、自分とサシで向き合うのとそれが嫌で社会的なパニックでごまかすのループなのかもしれないな。まぁ、一義的にはパニックでも生きていけるし、過度に治そうとして自意識過剰になると悪化しそうなので、パニックとは仲よくお付き合いしたいものです。

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